2015-03-27 第189回国会 参議院 予算委員会 第13号
ですから、総理とか私たちが子供の頃に春先くしゅくしゅしていると、親の世代は鼻風邪とか言って、もうそんなの熱もないんだから学校へ行けとかと言っていましたけれども、それは、大正生まれや明治生まれの人たちには経験したことがなかったんです。まさに戦後、四十年代、五十年代以降に出てきた言わば人災であり、公害の一種だとさえ私は思っています。
ですから、総理とか私たちが子供の頃に春先くしゅくしゅしていると、親の世代は鼻風邪とか言って、もうそんなの熱もないんだから学校へ行けとかと言っていましたけれども、それは、大正生まれや明治生まれの人たちには経験したことがなかったんです。まさに戦後、四十年代、五十年代以降に出てきた言わば人災であり、公害の一種だとさえ私は思っています。
子供のころの食育の重要性を今強く感じるところでございますが、明治のころ、体育の根源も食物にあり、また知育の根源も食物にあると言う作家がおりましたが、明治生まれの作家村井弦斎の言葉でございます。まさに、食は命の根源であるといったごく当たり前のことを日々の生活の積み重ねの中で学ぶ子供のころの食育こそ、自力で生き抜く力を養う大切な教育と考えております。
私は、例えば小学校のときに三回、担任の先生がかわったんですが、最初、一年生のときは、明治生まれの先生で吉田寅彦先生という、今でもよく覚えているんですが、大変厳格な、厳しい、ひげを生やされた、相当お年を召した方なんですが、大変厳しい先生ではありましたが、いわば規範意識を植えつけられたような、そんな気がいたしました。
私は、明治生まれの警察官であった父から、告げ口はみっともない人間のすることだと教えられ、育ちました。強きをくじき弱きを助けるのが人の道であり、おのれの保身のために告げ口をするような、強きにおもね弱きを足げにするような人間は最低だと教えられました。 私は、このような考え方は我が国の誇るべき思想、哲学だと思うのです。
私のおじいさんの時代というか、明治生まれぐらいの方が、帽子をかぶったり真っ白の靴を履いたり、随分格好いい。大正のロマンといいましょうか、いろいろなことをやっていたはずで、何かこのところ画一的になっているというのは、ファッションの世界だけではないような気がいたします。よって、どうぞ皆さんも、ネクタイをとる、だって私は環境委員なんですよと言っていただきたいと思っております。
ですから、何か、明治生まれの人、あるいは江戸末期に生まれ、明治生まれの人、「坂の上の雲」ではありませんが、何か当時の日本人の方がもっと志が高く、敗者に優しく、思いやりがあったような気がいたします。
ゲバラをもう小僧扱いにして、いかにそんなことはできないかということを論破して、それでゲバラは負けて、そしてボリビアに行って単独ゲリラをやっていくという、そういう歴史があって、この老人、なかなか明治生まれの気骨のあるヘミングウェーのような、何というか、容貌をしたすばらしい人だったんですね。
○鈴木政二君 私がそれこそ独身のときに、議員になったときに、先輩の人から聞かされ、これは明治生まれの人でありましたけれども、太鼓判という言葉がありまして、太鼓判というのはよく印鑑を押してどうのこうのという話でありますけれども、実は中国のことわざで、古いことわざで、河川、もうちょっと詳しく言いますと、川が蛇行してなって、昔は洪水をすると、こちらの左岸の村、それから右岸の村、どちらかが切らないと両方とも
自分が日本に来たのは約四十年前、昭和三十七年、当時は明治生まれの人が大勢いた、男も女も含めてですけれども、明治生まれの人たちは背筋がしゃきっとしていた、そういう印象を強く当時の日本に自分は持っている、こんなふうな話をされたわけであります。
明治生まれの日の丸・君が代が仮に日本の伝統であるとするならば、先ほど引用した西村のごとき異論、異端に対する尊重もまたこれからの日本の伝統とすべきでありましょう。 今の日本で必要なことは、国民の同質性、一体性ではないと私は思います。むしろ、社会の多様性、異質性こそが二十一世紀の日本にとって重要な価値であろうと思います。
○日野政府委員 先ほども御答弁申し上げましたように、確かに、経営責任ということは経営改善策におきましてより一層明確にしなければなりませんし、退職金を受け取られた方についての責任といいますか、いろいろこれから真剣に取り組んでいかなければならないと思いますが、たしか一番最年長の方は明治生まれであったかというふうに聞いておりますが、ちょっと年齢、具体的なことをお答えできないことをお許しいただきたいと思います
私は、明治生まれというものにあこがれを持っていました。気骨があり、日本人の原型だと思っております。私は杉浦さんのお写真を見るにつけ、その面魂すごいな、明治生まれの人だな、きっとやがてしっかりした答えを出してくれるのではないかなという期待を持っておるわけでございますけれども、先ほど申しましたリストラ策の中に、大野木頭取が言いました、旧経営陣二十四人に退職金の自主返還の要請をする、こうありますよ。
振り返ってみますと、その人たちというのはみんな大正生まれで、言ってみれば、その当時の先生というのは明治生まれの人だったんだろうなというふうに思うわけでありますね。 また、先ほどの江藤先生のあの詩ですけれども、実は私の母が大正生まれなんですね。江藤先生が実はこういうことを言っていたんだということでもって家でその詩を途中まで言いましたら、その先をやはり母がすらすらと言い出すわけですね。
子供さんも大変ですが、この間私が家で言われたのは、八十歳の母親と八十五歳の父親と、家内の母親が九十歳ですけれども、医療費、つまり薬とか医療とかで物すごくて、家内の母親は明治生まれでございますので、いわゆる百万円長者というような時代ですので、僕にパパと言うんですが、パパ、このごろ病院へ行ったら高うついてしゃあない、お金は残り少ないんやけれどもどんどん出ていく、大丈夫やろか、九十歳からでもどこか働くところないかなというふうに
これは、明治生まれ、大正生まれの習慣じゃないか、体質的なものじゃないかというふうに、かつては我々若い者はそういうお年寄りを、失礼な言い方で、ばかにしておったわけです。
明治生まれの経営者の方々、つまり昭和恐慌を実際に経験されている方々、前田建設の会長さんですとか太陽生命の方、この辺は乗らなかった。わかっていたからですね。あと外国人。
面接というか調停があったんですが、明治生まれと思われるおじいさんとおばあさん。このままの話を読んでいます。私の記憶ではということで、世代の差を感じさせられるような態度や発言ばかりが目立って失望しました。常に、我慢すればやっていけないことはないでしょう、我慢我慢と、そればかりを言われたと。
○円より子君 先ほど明治生まれの方とかなんとかという、別に私は年代によってじゃないと思うんですけれども、たまたま年代の高い方がいらっしゃって、若い人でもそういう視点のない方もいらっしゃるかもしれません。
平均年齢が六十一でしたか、調停委員の方たちの方が少し高くて、私は先ほども言いましたように、年齢が若い方でもジェンダーの視点のない方もいらっしゃいますし、明治生まれの方でも大変そういったことに認識のある、一切そういった性差の差別をしない方々もいらっしゃいますけれども、残念ながら、先ほどのアンケート調査等から見ますと、年代の高い方々と調停で話が合わなくてストレスがたまるというようなことがあります。
高齢者は常に一様ではありませんので、大ざっぱに言って大正、明治生まれの人たちは、自分たちは親の面倒を見たし子供たちからも見てほしいと思っている人が多いんじゃないかと思います、そうでない人もいっぱいいますが。自立している人もいっぱいいます。しかし、今大体昭和生まれの人が七十歳に足を入れかけています。昭和生まれの最初の人はもう七十歳が始まっています。
実は、私の祖母は明治生まれであります。五年ほど前、九十五歳で亡くなったのですが、八十五歳のときに、お年寄りにありがちなんですが、転んで足腰を弱めて老人病院に入院いたしました。その病院、一室に四十から五十のベッドがあり、私ども家族が見舞いに行くと、必ず白いカーテンで一ベッドあるいはニベッドを囲ってある。今、危篤で亡くなりそうな方、あるいはもう既に亡くなった方のベッドなんですね。
これは明治生まれの小学校しか出てない父親ですから仮名遣いもちょっと背の仮名遣いでありますけれども、これを読んで、特に「水道は壊れ、七千二百の消火栓は役に立たなくなった。」、こうあるわけです。そして、下町の方から火災が起きた。見る見るうちにそれがその周辺に広がった。その火災が広がった中で旋風が起きる。多くの人が被服廠跡で亡くなった。こういう時代があったわけですね。